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【本誌アーカイブ】音楽家・坂本龍一 デビュー作『千のナイフ』から最新作『12』まで(vol.18)

音楽家 坂本龍一 デビュー作『千のナイフ』から最新作『12』まで
聞き手・文=藤田博孝(ONBEAT編集長)
2023年5月16日発行『ONBEAT vol.18』掲載

 

1978年のデビュー以来、半世紀近くにわたり第一線で音楽シーンを駆け抜けてきた音楽家・坂本龍一。多岐にわたる膨大な活動は、もはやそのアーカイブ自体が一つのアート作品であると言えるだろう。今年初頭、そんな坂本から世界中の音楽ファンへ、がんと闘病しながら制作した最新アルバム『12』が届けられた。その発売にちなんでONBEATが選んだ坂本龍一の12枚のオリジナルアルバムとその最新作を題材に、希代の音楽家「世界のサカモト」がその創作の歴史を語った。 坂本龍一は自身の音楽のバックグラウンドについて、著書『音楽は自由にする』の中で、小学校1年生からピアノを、小学校5年生から作曲を学び、バッハやドビュッシーを経て西洋音楽の流れをたどってきたこと。「高校時代はジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、ネオ・ダダ、フルクサスのような運動にどっぷりはまった」こと。そして高校時代の終わりごろには「西洋音楽はもう行き詰まってしまった。われわれは、従来の音楽でブロックされた耳を解体しなければならない」という問題意識を抱き、そのために「民俗音楽と電子音楽は学び倒してやろう」と東京藝大の入学時に心に決めていたことなどを語り、「坂本龍一の原型は、このころすでにできあがっていたのかも知れません」と回想している。

―大学在学中に生活のために音楽の日雇い仕事を始めた坂本さんが、仕事に追われ疲弊していく中、レコード会社から制作の話を持ち掛けられ、1978年10月に発表したソロ・デビューアルバムの『千のナイフ』。本作は、日雇い仕事で夜中まで働いた後、レコード会社の小部屋に自分の機材を持ち込み、明け方までレコーディングするという暮らしを数カ月も続けて世に出した作品だそうですね。個人的にこのアルバムは、坂本龍一の音楽のビオトープのようだと感じています。そのエコシステムの中で、音自体が生命活動としてさまざまな響きを発しているかのようです。代表曲でもある「Thousand Knives」を含むこの処女作は、坂本さんにとってどんな作品ですか。

坂本:当時は名も無いスタジオミュージシャンだったので、初めて名刺を作ったというような気持ちでした。現代音楽でもなく、クラシックでもなく、ジャズでもなく、レゲエやボサノバでもポップスでもなく、当時はそれら全てに関心があったので、その関心が、全てとは言わないけれど、寄り集まってできたアルバムです。ここに原点があると言われてしまうと違うなぁと思うのですが、当時関心のあったことが少しずつ出ているアルバムだと思います。毎晩深夜12時くらいから小さなスタジオに入って朝まで毎日作業をしていました。眠くなったりすることもなく興奮していたんだと思います。たまに人が録音のためにやってきました。細野晴臣さん、山下達郎さん、渡辺香津美さん、浜口茂外也さんなど…ドラムを持ち込んで録音するようなスペースはなかったので(高橋)幸宏は来なかったはず。高橋悠治さんとは別のスタジオに出向き2台のピアノで録音をしたり。「Island of Woods」は森を描こうと思って作っていたんですが、文字通り森に迷い込んだ感じがして、手探りで一歩一歩前に進むというような、行き先がわからず森の中をさまよう感じでした。ほとんど即興で「行けるところまで行こう」というように作りました。タイトルの「千のナイフ」はアンリ・ミショーの詩集『みじめな奇蹟(Misérable Miracle)』から採ってきたわけですが、やはり、無意識や薬物で意識が拡張された状態というものに興味があったのだと思います。中学時代に父の書架にあったウィリアム・バロウズの『ジャンキー』を読んで興味を持ち、その興味はずっと続いていたので、ミショーの「拡張される意識・無意識」にも興味を持ったのでしょう。当時は彼の書籍や絵に興味がありました。後に作ることになる『音楽図鑑』での「集合的無意識」はここですでに始まっていたわけです。

 

《千のナイフ》 1978年

《B2UNIT》 1980年 ⒸALFA MUSIC, INC.

 

―細野晴臣さん、高橋幸宏さんと共にイエロー・マジック・オーケストラ(以降、YMO)を結成し、ファーストアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』を1978年11月に、セカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を1979年9月に発表すると、翌月からワールドツアーを敢行し、大好評を得ます。一夜にしてYMOは国民的スターになりますが、坂本さんにとってはそれが大きなストレスとなり、その原因となったYMOを仮想敵として制作したのが『B2UNIT』だそうですね。本作について坂本さんは、大竹伸朗さんとの対談(『新潮』2011年1月号)の中で「あれはロックの形を借りた手作りの実験音楽だった。ロックのイディオムを使って、ブリコラージュ的にインスタレーションを作るみたいにして音楽を作る」ことがすごく面白かったと語っています。実際に今なお色あせない革新的な作品ですが、本作は坂本さんにとってどんな作品ですか。また、『B2UNIT』の実験性を引き継ぐような流れで、YMOも翌1981年には実験的なアルバムを相次いで発表しました。『BGM』と『テクノデリック』の2枚です。こちらも併せてコメントをいただけますか。

坂本:(『B2UNIT』は)僕のアルバムの中では最も攻撃的な作品です。確かにYMOという急に超ポップな存在になってしまったものを敵視し、その反対のものを作ってやろうと思っていたのは事実です。それでも、当時関心のあったものに影響を受けていますよね。ブライアン・イーノ、マイルス・デイヴィス、クルト・ヴァイル、アンディー・パートリッジ、ミュージック・コンクレート、キング・サニー・アデなどアフリカ音楽の影響、また当時、一番先鋭的だったイギリスのポップグループの影響もあります。僕にとっては2曲目の「Thatness and Thereness」、これはクルト・ヴァイルの『三文オペラ』の影響ですけれど、今でもとても好きなメロディーとハーモニーで、良い曲が書けたなと思いますが、自分の歌がそれを全く生かしていないので残念です。「Riot in Lagos」はアフリカの先鋭的なポップミュージックの影響を受けていて、その中に大好きなピグミーの音楽の影響が出ていたり、また延々と続く繰り返しの中に変化をつけてゆくという、クラシック出身の僕には少し難しい要素があって、実はそれは大きな挑戦でした。『B2UNIT』は僕にとって「挑戦的」ということに尽きるアルバムです。『BGM』については、特に言うことはありません。『テクノデリック』はYMOのアルバムの中で一番好きな作品です。3人のクリエイティビティが最も高まり、それがうまく組み合わさったアルバムだと思います。

―『BGM』と『テクノデリック』の間で、坂本さんは3枚目のオリジナルアルバム『左うでの夢』を1981年10月に発表し、1982年には忌野清志郎さんとの印象的なコラボレーションでシングル「い・け・な・いルージュマジック」を発表しました。そして1983年には巨匠・大島渚監督の映画作品『戦場のメリークリスマス』に俳優として出演し、映画音楽も担当しました。テーマ曲「Merry Christmas Mr. Lawrence」は心の琴線に触れる名曲として世界中で愛されています。その曲を含む映画のサウンドトラックについて、コメントをいただけますか。

 

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