対談 田中泯×高谷史郎 『TIME』を語る
聞き手=小崎哲哉 / 構成・文=藤田博孝
2023年10月17日発行『ONBEAT vol.19』掲載
坂本龍一と高谷史郎が共同でコンセプトを考え、坂本が音楽を、高谷がビジュアルデザインを担当したシアターピース作品『TIME』。出演に田中泯、宮田まゆみ(笙)、石原淋を迎えた同作が、来年の春、生前本作のために全曲を書き下ろした坂本龍一の一周忌に日本で初上演される。文筆家 / アートプロデューサーの小崎哲哉を聞き手に、田中泯と高谷史郎が『TIME』の制作過程や、坂本との交流について語った。
高谷史郎 閒居にて | 田中泯 閒居にて |
小崎:私は plan-B(田中泯が1982年に共同創設者の一人として立ち上げた実験的スペース)にも通っていましたし、坂本さんの音楽も昔から聴いていたので、個人的に坂本さんが plan-B に出演するかどうか関心を抱いていたのですが、それは実現しませんでした。後になって坂本さんは「plan-B はいつも通り過ぎるだけ、ただ目でずっと追っていた」と『ユリイカ』の田中泯特集号に書いていたので、坂本さんが今ここにいらっしゃったなら、「目でずっと追っていた」とはどういう意味なのか聞いてみたいところです。泯さんが坂本さんを最初に意識されたのはいつ頃ですか。
田中:僕がパリの小さな劇場で踊っていた1970年代の終わりごろ、パリ在住の日本人たちが「日本からYMOというグループが来るから応援しよう」と言って、チケットを一生懸命に売っていました。僕も必死に活動していたのでYMOのツアー(「トランス・アトランティック・ツアー」1979年10月16日~12月19日)は見にいけなかったんですけど、それがYMOと坂本龍一を知るきっかけになりました。
小崎:実際に知り合われた経緯は?
田中:僕がインドネシアを旅した姿を記録したドキュメンタリー映画(『ウミヒコヤマヒコマイヒコ ~田中泯ダンスロードinインドネシア~』監督:油谷勝海 2007年)が公開される際に坂本さんにコメントを依頼したところ、快く引き受けてくださいました。それからメールなどでやり取りするようになり、2007年11月に P.S.1 と MoMA などで踊るため渡米した際、ニューヨークに到着したその日の夜に坂本さんのスタジオにお伺いして、その後レストランに一緒に移動して延々と明け方までおしゃべりしました。その時に坂本さんから「泯さんは本物を信じようとしているんですね」と言われ、わが意を得たりと感じました。本物探しをしているとも言えますし、自分も本物になりたいと思っています。僕は会話をしても本を読んでも、その内容をすぐ忘れてしまう方なのですが、自分に響いた会話や文章に関しては、必ず体のどこかに保っているという自信はあります。
小崎:坂本さんはこの時のことを振り返り、「泯さんは農業をしていて、体が環境について考えている。そこに非常に共鳴した」という趣旨のことをエッセイにつづっています。また、泯さんの師である土方巽の著作『美貌の青空』の引用、ないしはオマージュとも取れる《美貌の青空》という曲を1995年に書いています。これについてお話されたことはありますか。
田中:それについて話したことはありませんが、坂本さんは土方さんをすごい人だと認識していました。坂本さんはいろいろいなことに対して非常に好奇心旺盛な人でしたし、一度だけ若い頃に土方の舞台裏の手伝いをしたことがあると言っていました。
小崎:高谷さんは、泯さんとどのような経緯で知り合ったのですか。
高谷:「KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭2016」で展示した、海洋生物学者のクリスチャン・サルデと坂本さんと僕との共作による《PLANKTON 漂流する生命の起源》という作品が、パリのカルティエ財団現代美術館でも展示されることになり、その展覧会のオープニングに来てくださった泯さんを、坂本さんに紹介してもらいました。そしてその翌年には、泯さんと坂本さんと僕の3人で中谷芙二子さんのプロジェクトに参加しました。ロンドンのテート・モダンで中谷さんの《霧の彫刻》の展示があり、照明:高谷史郎、音:坂本龍一という形で、コラボレーションさせていただきました。僕と坂本さんは、それまでにも霧の動きをキャプチャーして音に変換する作品《LIVE-WELL》に取り組んでいたので、それをテート・モダンでの中谷さんの作品《Fog sculpture #03779 “London Fog”》に生かしました。その際に泯さんにパフォーマンスをしていただいたのです。その約半年後にはオスロ芸術協会と現代音楽祭「ウルティマ・オスロ現代音楽祭」との共催で、同じメンバーによるコラボレーション・パフォーマンス《a・form》を行いました。パフォーマンスは当時建築中のオスロ新国立美術館の屋上という特殊な場所で行われたので、とても面白かったです。この時坂本さんは、中谷さんとのコラボレーションでは唯一、ライブで演奏されました。また、建設中の会場には高所から工事現場を明るく照らす照明付きタワークレーンが2本立っていて、それをライブ・パフォーマンスに使わせていただいたことで、ダイナミックに大きく移動する影を地上に投影することができました。
田中:お客さんも霧でびしょぬれでしたね。坂本さんは大勢の人々と霧に包まれ、僕の踊りは全く見えなかったと思います。屋上からは海も港も見えるのですが、霧の中で踊る僕にとっては危ない舞台でした。僕自身は中谷さんとはそれ以前にも、2004年の「ダンス白州」と、2008年の「横浜トリエンナーレ」で共演していました。
高谷:中谷さんのプロジェクトには、ビデオ・アートのビル・ヴィオラやゲイリー・ヒルなども参加していたりして、そういったアーティストビデオを使って美術作品を作り始めたアーティストたちから僕たちはとても影響を受けました。 僕は今、自分が使えるメディアを使って、本当にアートが作れるのかということを実験しているのですが、メディアが時代と共に変化し続けていく以上、今僕が発表している作品が将来的に残るかどうかは僕自身にも分かりません。ですからゲイリー・ヒルやビル・ヴィオラなどが残した作品の後に続くような気持ちで制作しています。
田中:僕は世代的には、 ナムジュン・パイクや高松次郎の下の世代です。ナムジュンの部屋の窓からよく見えるロフトの屋上で踊るなどしていて、彼から「お前さんは運ぶのが自分の体だけだからいいな」 と言われました。僕の若いころは、 ポストモダンダンスの世界にもものすごい人たちがいて、彼らの表現が他のジャンルのアートとどんどん融合していった時代でした。そんな群れの中で僕はいつもみんなより年下でした。今とは正反対です。 高谷:僕は晩年のパイクさんにニューヨークで何度かお会いしました。MoMAの「Video Spaces」展 (1995年) で、 古橋悌二の 《LOVERS》 を展示した時にも来てくださいました。 その後、 〈LOVERS〉 を 「第3回リヨン・ビエンナーレ」 (1995-96年) に出品した際に、 同じく作品を展示していたパイクさんが 《LOVERS》を見て、「これはモダンと違うね」と僕に言ったのです。 その言葉を僕は批判と受け取ったのですが、後でよく考えてみると、リヨンではMoMAで展示した時とは違う形で 《LOVERS》を展示していたので、ただ単に 「モダン (=MoMA) の時とは違う展示になっているね」という意味だったのだと思います。
小崎:さてもう一度、混さんと坂本さんとの話に戻ります。 今から7年前に泯さんは 『RADIO SAKAMOTO』という坂本さんの番組に出演し、2人でバイオテクノロジーやAIなどについてのかなり先駆的な話をされています。 また、その際に「僕はソメイヨシノが嫌いだ。僕の住んでいる所にはタカトオザクラという桜があって、これが変なやつで1週間くらいズレて咲く。 それが良いんだ」と発言されています。 これは 『TIME』にもつながる話かなと思いました。