彫刻家・ヤノベケンジ 廃墟から立ち上がる希望のモニュメント
聞き手・文・翻訳=藤田博孝(ONBEAT編集長)
2022年11月3日発行『ONBEAT vol.17』掲載
サブカルチャーの美意識を武器に、常に社会課題と向き合いながら制作し続けてきた彫刻家・ヤノベケンジ。SF・漫画オタクの少年時代から、「恥ずかしいほどポジティブ」と言い切る現在の境地に至るまでの歩みを語り尽くす。
―大阪万博跡地が作家ヤノベケンジの原風景だそうですが、現在に至る歩みについてお聞かせください。
ヤノベ:1965年生まれの僕は、1970年の万博開催当時は大阪の南の方に住んでいたのですが、翌1971年に、僕が小学校に上がるタイミングで、万博会場跡地近くの新興住宅街に家族で引っ越しました。家から自転車で15分ぐらいで行ける会場跡地は、僕たち子どもにとっては探検したり、かくれんぼしたりできる絶好の遊び場でした。今でも克明に覚えているのは、白い巨大なパビリオン「日本館」が鉄球によって取り壊されていく風景です。岡本太郎さんの《太陽の塔》や、丹下健三さんが空中未来都市構想に基づき設計した大屋根などもまだ残っていました。万博開催中にたくさんのイベントが開催されたお祭り広場には、若き日の磯崎新さんが設計した高さ13mの巨大なロボット《DEME》が打ち捨てられていました。ロボットには二つのコックピットがあり、人が乗り込んで操縦すれば動き出しそうな雰囲気がありました。それは「未来の廃墟」に迷い込んだような非日常的体験であり、僕はまるで時間旅行をして未来の果てに行ってしまったかのような感覚を味わっていたのです。宇宙飛行士のインタビュー集には、「宇宙から地球を俯瞰した瞬間に、神の啓示のようなものを受けて、人格が変わってしまった」といった類いのエピソードがよく紹介されていますが、当時の僕が精神的に受けたインパクトの大きさはそれに近いものでした。その後1990年代に作家として「サヴァイヴァル」をテーマに作品を発表し始めた時になって初めて、小学生の時に万博会場跡地で幻視した「未来の廃墟」が、クリエーターとしての自分の原風景であること、そしてその特殊な経験が自分を変容させたのだと気付きました。
サブカルチャーが熟成されていく時代の中で育ち、そうした文化に大きな影響を受けた僕は、SFや特撮映画で使われるコスチュームなどを独自に研究し、中学・高校時代にはかなり高い完成度でそれを作ってコスプレをしていました。そのように立体造形が好きだったので、高校卒業後は京都市立芸術大学の彫刻科に入学しました。大学1年生の頃はまだガメラの着ぐるみを作るなどしており、自分には映画製作に携わる仕事が合うのではないかと考えていました。一方で、その当時1980年代後半は、関西の現代美術シーンが輝いていた時期であり、中原浩大さん、石原友明さん、森村泰昌さんといった先輩たちが「関西ニューウェーブ」と呼ばれ、大活躍していました。僕もその様子を目の当たりにし、後輩として彼らのお手伝いをさせてもらったり、大学で美術の歴史などを勉強したりしているうちに、サブカルチャーの分野でチームの一員として働くよりも、現代アートの領域で自分自身の世界観を掘り下げ、新しい概念や作品を発明しようと考えるようになりました。
タンキング・マシーン 1990年 滞在制作「妄想砦のヤノベケンジ」水戸芸術館 1992年 撮影:黒沢 伸 | ジャイアント・トらやん 2005年 個展「キンダガルテン」豊田市美術館 2005年 Photo: Seiji TOYONAGA |