©ART BASE MOMOSHIMA Wandering Mickey 1990 Installation view: ART BASE MOMOSHIMA (Hiroshima)
現代美術家・柳幸典 芸術家としての原点から現在まで
聞き手・文=藤田博孝 (ONBEAT編集長)
2022年6月21日発行『ONBEAT vol.16』掲載
MoMAやイギリスのテート・ギャラリーなど世界の主要美術館に作品収蔵されている現代美術家・柳幸典。 強い社会性とユーモアを兼ね備えた柳の挑発的な作品群は、 常に物議の的となる。そんな柳が自身の活動拠点として瀬戸内海の離島・百島に自ら立ち上げた 「アートベース百島」で、その創作活動を巡る話を聞いた。
日本現代アート界のチェ・ゲバラ
―1985年に大学院を修了し、柳さんがアーティストとして活動し始めた頃の状況をお聞かせください。
柳 : 元々僕はチェ・ゲバラなどの革命家に憧れていました。 そんな自分がなぜアーティストを目指したのかというと、それはアートの世界に「自由な精神」を求めたからで、 またそこでこそ自分の反骨精神が一番生かせると思ったからです。 全共闘運動が盛り上がった1960年代後半のような 「革命の時代」は過ぎ去ってしまったものの、やはり憤りを感じざるを得ない日本の状況を変革する手段として、僕はアートを選びました。 しかし当時の美術教育は、むしろ従順さを求めるもので、まるで職人を育てるかのように、 素材の使い方や描き方など決まった方法(型) を教えていました。加えて画壇のような封建的なシステムもあり、とても窮屈に感じていました。また当時の日本には、今のように若い人が現代美術を発表できる場所もあまりなく、画廊といってもほとんどが貸画廊で、作家自身がお金を払って展覧会をするような状況でした。 しかし、それではお金の流れがそこで完結してしまいマーケットが広がっていきませんし、作家も疲弊してしまいます。 僕はそうした貸画廊など既存の仕組みは使いたくなかったので、おのずと屋外での展示をするようになりました。 まず最初は、 「移動」そのものをテーマとし、土の玉をフンコロガシのように移動させるプロジェクトを行いました。 「移動」することには、しばしば政治的な局面が伴います。 例えば国境を越えて海外に「移動」するためにはパスポートが必要ですし、同じ日本国内でも沖縄の米軍基地への出入りなど、ボーダーを越えて 「移動」することは政治的な行為だといえます。 ただ、日本にはそうした政治的なテーマを直接的に表現することをタブー視する風潮が当時から根強くあったため、当時の僕は間接的な表現にとどめていました。
―そんな「移動」をテーマとした《グラウンド・トランスポジション》や、 見えないものを可視化することを試みた《グラウンド・カラーリング・プロジェクト) など大規模なインスタレーションやパフォーマンス作品を1986年から1987年にかけて発表した後、1988年に柳さんはイェール大学大学院へ留学します。 そこで得たものとは何でしょうか。
柳:渡米して宗教や人種が異なる多様な人間たちと喧々囂々と意見を交わすうちに、日本では比較的タブーとされていたことも実は大したことがなく、むしろ「なぜタブーとされているのか」を考えるようになりました。 そして作品自体も、よりシンプルに分かりやすく強度のある作品を作るようになりました。 それはやはり、自分の意見や立場を明確にしなければ議論ができない環境に身を置いたことが大きかったと思います。そうした状況の中で「自分は何者か」ということを模索し始め、アトリエの床を遣う蟻の跡を追うことから発想した作品 〈アントフォローイング・プラン》を生み出しました。その後この作品は、僕の代表作となった「ワールド・フラッグ・アント・ファーム」 シリーズへと発展していくことになります。 その一連のシリーズでは、砂絵の中に放たれた蟻が砂を運び 「移動」 することで、砂絵で描かれた国旗や貨幣という人間の作ったシステムを形骸化してしまいます。 また、イェール大学大学院の卒業制作展で発表した《ワンダリング・ミッキー》は、ハツカネズミが走ることで「回し車」を回すように、ミッキーマウスが描かれた車が、星条旗をあしらった大きなケージの中を走ることで、ケージを回すという作品です。 これにより化石燃料を消費し尽くしてしまいそうなアメリカの消費社会を表現しました。
Distress Signal 1996 Photo: Keizo KIOKU Courtesy of ANOMALY
One Dollar B43305295K 2014 ©YANAGI STUDIO | Mao Z4U2091851 2014 ©YANAGI STUDIO |