林信行の「22世紀に残すべき価値」
第一回 日本の先進事例から考える、パブリックアートのこれから
2022年11月3日発行『ONBEAT vol.17』掲載
ニューヨークを訪れるとパブリックアートの力をまざまざと感じる。9.11テロの震源地、ワールドトレードセンター地下鉄駅に建つランドマークの「Oculus」や、ツインタワーの跡地をかたどった二つの水の彫刻など街の中に作品が溢れ、しっかりと市民生活に溶け込んでいる。一方、日本のバブリックアートは小ぶりな作品が中心だが、都市開発事業と密接に結び付いており、直島、六本木、丸の内、渋谷など街の名前を聞いただけで頭に浮かぶ作品も少なくない。中でも今回は、20世紀以後、日本全国に広まった彫刻のパブリックアートを紹介する。
その土地の文化として根付く息の長いパブリックアートを探る
パブリックアートの定義は曖昧だ。「美術館やギャラリーでなく、公共空間に置かれる作品」と広義で捉えれば、ラスコー洞窟の壁画や西洋の教会、日本の寺社仏閣に置かれた仏像などの宗教芸術なども入りそうだ。また「公的な製作過程、維持方法で管理されている作品」という定義で捉えると、寄附で支えられている宗教芸術にも当てはまってしまう。近現代におけるパブリックアートは、作品の設置に明確な目的が定められているという意見もある。だが、その目的も環境美化や教育、特定の人や出来事の記念、政治的・社会的プロパガンダ、活気づけ、そしてその場所の日常風景の記録など実に幅が広く漠然としてしまう。グラフィティをパブリックアートの一つと捉えるかなども議論が続いており、定義の境界線は常に揺れ動き変化し続けている。
そんなパブリックアートの欧米における20世紀以後の歴史をひもとくと、大恐慌後の1930年代にフランクリン・ルーズベルト大統領が行ったニューディール政策が起源といわれている。それは公共事業促進局が、失業美術家に仕事を与えることを主眼として進めた「連邦美術計画」だった。同じ頃、フィンランドで、建築費の幾分かを芸術品購入に当てさせる「パーセントプログラム」が発案され、これがその後、米国や欧州全域に広まっていった。このように欧米のパブリックアートの活動が、アーティストの雇用に軸足を置いたのに対して、日本のパブリックアートは市民文化啓蒙のために自治体による彫刻設置事業としてスタートした。1961年山口県宇部市の常盤公園で「宇部市野外彫刻展」が開催されたが、1964年自治体がそこで買い上げた彫刻を市内に飾る事業が策定。これが起源とされている。その後、同様の動きが神戸市や長野市などにも広がり、1970年代後半までには「彫刻のある街づくり」が各地で競うように始まる。当時、パブリックアートは環境芸術などとも呼ばれていた。この時代、設置されていたのは具象彫刻、特に裸婦像が圧倒的に多く、街中に突然現れた裸の女性像に驚く人々の話題が新聞の記事になったり、それがフェミニストからの批判を受けたりもした。1980年代、バブル景気の追い風で野外彫刻が全国に乱立すると設置場所や数についての問題も度々指摘された。こうして彫刻公害という言葉も生まれたという。そんな中、それまでの「環境芸術」のイメージを刷新し、一般の人々に「パブリックアート」という言葉を根付かせたのが1990年代中頃のファーレ立川と新宿アイランドの二つの市街地再開発事業だった。