©Shinro Ohtake Photo: Shoko
現代美術家・大竹伸朗 あらゆる「もの」は画材である
聞き手=成相肇(東京国立近代美術館) 構成・文=藤田博孝
2022年11月3日発行『ONBEAT vol.17』掲載
1980年代初めに時代の寵児として華々しくデビューして以来、 圧倒的な創作意欲で膨大な作品群を生み出し続けてきた現代美術家 大竹伸朗。 そんな大竹が、 今秋、 東京国立近代美術館で開催される自身の大規模な回顧展に際し、本展を担当する同館主任研究員の成相肇を聞き手に、「既にそこにあるもの」と呼ぶテーマのもとに半世紀近く持続してきた自身の制作の軌跡と、 その原点、 そして本展への思いを語った。
成相: 今回の「大竹伸朗展」は東京国立近代美術館で開催されますが、東近美のいかにもオフィシャルな佇まいと、大竹さんのこれまでの創作活動やどこかやんちゃなイメージは、一般の方々にはフィットしない印象を与えるかもしれませんね。
大竹: むしろそのミスマッチな感じにこそ、 僕のやっているコラージュっぽさが現れているように感じます。 ミスマッチという点では、以前宇和島市の宇和島駅舎に掲げられていたサインを譲り受け、それ自体を作品とした《宇和島駅》 を、今回は東京国立近代美術館のテラスの上に掲げることになりました。 昨今は古い物を当たり前のように捨てて、どんどん新しい物に変えてしまいますが、 僕は宇和島駅のサインのように時間が堆積した物に反射的に惹かれるんです。それをもらい受けた当初はそれを作品化しようといった意図は全くありませんでした。その2 ~3年後に新潟市新津美術館のこけら落としとして個展の御依頼をいただき「ローカルをテーマに作品を作ってほしい」と頼まれた時に、「新築の美術館の最上部に、あの宇和島駅舎サインを取り付けたら面白いんじゃないか。」 そうふと思ったことがきっかけでした。そして実際に設置してみると、偶然遠くに踏み切りの音が聞こえる場所だったりと、まるで田んぼの中に新しい大きな駅が突然出現したかのような雰囲気が醸し出されました。 それがきっかけとなって、 その後この〈宇和島駅》は、大阪、水戸、福岡、 広島など各地を巡り、 今回、 東京国立近代美術館にたどり着いたのです。
成相:〈宇和島駅〉は看板単体の作品でもありますが、 設置することで建物ごと作品化されるので、最大規模の作品といえますよね。
大竹:そうですね。ただ今回《宇和島駅》を東近美に取り付けることについては、今までとは違う意味合いをすごく感じました。僕が30歳過ぎで生まれ育った東京から宇和島に移り住んで以来、既に34年ほどが経ち、もう人生の半分ぐらいは宇和島で暮らしています。それだけの時間を重ねると、宇和島駅舎の看板が、何だか自分の姿に重なってくるんですね。今やあの看板は自分の「自画像」とも言えるんじゃないかと、今回改めて気付かされました。 自画像といえば、今回の展覧会は「自分と自分の周囲の世界」を意味する「自/他」というテーマのコーナーからスタートします。ここには、自分が影響を受けた人物や物など、あらゆる事象を含めた幅広い意味で「自分と他者」をモティーフとした作品を展示します。
成相:文字通りのセルフイメージ以外に、ボブ・ディランやデュシャンなど、大竹さんの自己形成に関わる対象をモティーフに制作した作品が並ぶとともに、《「黒い」「紫電改」》などかなり初期の作品も展示されますね。
大竹:小学校低学年の頃には、将来は漫画家になりたいと思っていました。僕が子ども時代を過ごした昭和30年代は、まだ世の中に娯楽と呼べるものはそれほどなく、好きな漫画の主人公を描き写すことは、夢中になれる遊びの一つでした。ご指摘の《「黒い」「紫電改」》は9歳の時に作ったものです。大好きだったちばてつやさんの有名な戦争漫画『紫電改のタカ』を描いたところ、バランス的にうまくいかなかったので、実際の漫画を切って画面の上に置いてみたんです。すると目の前に、突然自分が納得のいく予期せぬ世界が現れたんですね。描かなくても、切って貼るだけで描くこととは異なる表現ができることを発見したその時の気持ちを今でもよく覚えています。もちろんコラージュという言葉すら当時は知りませんでしたが、結果的に《「黒い」「紫電改」》は、僕にとってくしくも初めてのコラージュ作品となりました。ちなみに作品のタイトルも、一峰大二さんの『黒い秘密兵器』からの「黒い」と、ちばてつやさんの『紫電改のタカ』からの「紫電改」が合体したコラージュになっています。その他にも漫画の世界は、すごくいろんなヒントを与えてくれました。その後中学1年の時に上野の国立西洋美術館で開催されたレンブラント展をきっかけに油絵を始めたのですが、自画像や静物画ばかり描いていると次第に飽きてきますし、日本の芸術に対しても「学問のようで真面目臭い」というイメージから、「自分がやりたいのは辛気臭い芸術ではなく、単純にかっこいいものを作ることだ」といった反発心を抱くようになりました。そんな高校1年のある日、当時テレビ関係の仕事をしていた8歳年上の兄の部屋でポップアートの本を見つけました。そこにはウォーホルのプレスリーやモンローをモティーフとした作品をはじめ、数々の作家による衝撃的な作品が載っていました。ただの印刷物ともいえるそれらの「作品」が、海の向こうではアートとして認められていることを知り、戸惑うと同時に、それは自分にとってとてつもなく大きな発見でもありました。