金剛能楽堂で演奏するサリフ・ケイタ ©Yoshikazu INOUE-KYOTOPHONIE 2023
音楽家 サリフ・ケイタ アフリカの黄金の声
聞き手・文=藤田博孝
2023年10月17日発行『ONBEAT vol.19』掲載
「アフリカの黄金の声」と称されるマリ共和国の音楽家サリフ・ケイタが、 今年の春に京都で開催された音楽祭KYOTOPHONIEに出演するため来日し、京都ならではの歴史的な空間を舞台に素晴らしいパフォーマンスを行っここではサリフ・ケイタへのインタビューと、今回サリフを招聘した 「KYOTOPHONIE」を仲西祐介氏と共に立ち上げたルシール・レイボーズ氏へのインタビューを紹介する。
サリフ・ケイタインタビュー
少し長くなるが個人的な話を語ることをお許しいただきたい。
1991年の初め、筆者はアフリカのマリ共和国にいた。 私が大きな影響を受けた偉大な音楽家、 サリフ ケイタが生まれ育った国だ。 アマチュア音楽家として活動していた私は、アフリカの音楽家たちが西洋音楽を安易に模倣することを良しとせず、民族の伝統に基づいた独自の大衆音楽を創造していることに尊敬の念を抱いていた。ルーツを尊重しながら新しいものを創造するという姿勢は、後に私が現在の仕事をする上での礎になっている。 首都バマコに到着し、サリフ・ケイタの歌を広場で歌っていると、大勢の人々が集まってきて「サリフが生まれ育ったジョリバ村に行くといい」と促された。 私は乗り合いバスでジョリバ村に向かい、村の入り口でサリフが父親のシナを題材に作った曲 《シナ》 を歌った。 すると村人が総出で現れ、踊りだした。最前列で踊っていたサリフの両親に自己紹介をすると彼らは大歓迎してくれ、当時は電気もガスも水道も通っていなかったジョリバ村で、私はサリフの家族と1カ月間、生活を共にすることになった。その後、旅の中継地点であったパリに戻り、サリフの家族から教えられた番号でサリフの事務所の番号に電話をすると、サリフが電話に出て「君のことは家族から聞いている。 今から事務所に来ないか」と誘ってくれた。そうしてサリフの事務所で撮った写真を、 私は今も自分の事務所に飾っている。 1997年にサリフがツアーで来日した時、私は光栄にも彼と共演することになり、 つくば市立ノバホールのステージであの《シナ》をサリフと交互に歌った。 1999年には坂本龍一の公演 『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』 のゲスト・シンガーとして来日したサリフが、私と身重の妻のためにVIP席を用意し公演に招待してくれた。その翌年、ニューアルバム『パパ』のツアーで再び来日したサリフの公演を、長子を授かり「パパ」となった私はブルーノート東京で鑑賞した。その公演のバックステージで談笑して以来、私とサリフが会うことはなかった。今回私が彼にインタビューを申し込むまでは。まさか私がインタビュアーだとは知らなかったサリフは跳び上がらんばかりに驚き、私たちの二十数年ぶりの再会を喜んでくれた。以下がその時のインタビューである。
Photo: Mamadou KONTE サリフ・ケイタと藤田博孝パリで1991年 | Photo: Hirona FUJITA サリフ・ケイタと藤田博孝京都で2023年 |
ー京都の東福寺で明日コンサートを行いますが、どんなお気持ちですか?
サリフ:京都を訪れるのは久しぶりですが、今日に至っても京都が日本の中で文化的に重要な場所だと理解しています。 日本のお寺で演奏することは初めてなので自分にとっても新しい経験です。 日本とアフリカの文化がコラボレーションすることは非常に有意義なことなので、うまくいけば良いと思います。
ーでは、あなたの音楽遍歴について伺いたいと思います。 1960年代まで、アフリカのポピュラー音楽はキューバ音楽の影響を強く受けていましたが、1960年代後半から1970年代にかけて、自分たちの伝統に根差した独自の音楽を演奏するようになりました。 アフリカ諸国が独立を果たした時代の流れの中で、アフリカ音楽も独立を果たしたのだと思います。 そんな中、あなたはレイル・バンドやレ・アンバサダーと共にアフリカ音楽の強力なリーダーとして活躍し、数々の傑作を生み出しました。バマコとアビジャン (コートジボワールの首都) を拠点に活動されていた当時のことをお聞かせください。
サリフ:アビジャンはとても大きな街なので、当時からさまざまなビジネスが活発に行われていました。そのためアビジャンには周辺国からもたくさんの人々が仕事を求めてやってきます。 ショービジネスに関わる自分たちも同様で、ビジネス規模の小さいバマコを離れアビジャンに移りました。 グループ名をレアンバサダーからレアンバサダー・アンテルナショナルと名前を変え、そこで5年間活動しました。 しかし、ある時点で私たちは収入源となるレコードを作る資金にも事欠く状況に直面しました。 レコーディングのためにスタジオに払うお金もなかったのです。 そんな時、 ラジオ局で働く男から 「君たちが短時間でレコーディングを済ませられるのなら、 真夜中に内緒でできるように手配してあげよう」 と連絡がありました。