田名網敬一 記憶の冒険
聞き手=藤田博孝(ONBEAT編集長)、構成・文=福村暁
2024年4月19日発行『ONBEAT vol.20』掲載
グラフィックデザイナーとして、映像作家として、そしてアーティストとして、メディアやジャンルの境界を横断し、半世紀以上にもわたって創作活動を続けてきた田名網敬一。この夏、国立新美術館を舞台に開催される大規模回顧展「田名網敬一 記憶の冒険」は、世界に誇る戦後日本人アーティストの最後のミッシングピースとも言える田名網敬一の全貌を解き明かす試みとなる。同展の開催を前に、奇想の世界を創造する田名網のルーツを辿るインタビューを行った。
―田名網さんは京橋でご家族が営む洋服の服地問屋に生まれたそうですね。
田名網:1941年頃、東京京橋の高島屋の裏一帯は繊維の問屋街になっていて、僕が生まれたのも田名網商店という服地問屋です。何百という洋服見本が倉庫に積まれていて、その中でも僕が好きだったのは商標、つまりタグです。その頃の商標は、今のロゴだけ入った小さいものと違い、大きければ葉書きくらいのサイズがあり、高級服地のステータスになっていました。金色や銀色、さまざまな色の糸を使った刺繍で、例えば砂漠を歩くラクダと旅人といったような、幻想的でエキゾチックな図柄が多く、見たことのない風景や人物が描かれていました。僕には絵本を読むより商標を眺める方が面白くて、倉庫でよく遊んでいました。何百種類もの商標のロールが置かれた倉庫は、色の洪水みたいなものですよね。その色彩感覚が大人になった現在に影響を与えているのかもしれません。
―それから田名網商店が店舗を拡張することになり、目黒駅前に住居を移すことになったそうですね。なかでも絢爛豪華な内装で知られる目黒雅叙園は、田名網さんの幼少期に強く印象を残しているのだと伺っています。
田名網:幼稚園のすぐ近くに目黒雅叙園があり、母親が迎えに来るまでは雅叙園で遊んでいました。今はビルになりましたが、木造建築だった当時の雅叙園は「昭和の竜宮城」と言われていました。舞妓さんが踊ってる図や宴会の場を描いた日本画など、その部屋ごとに極彩色の絵画や彫刻が満載で、トイレには赤い太鼓橋がありました。商標の幻想的な図柄をさらに拡大したような驚きがあり、すごく興味が惹かれました。今だったら子供なんて入れてくれないと思いますが、かつてののんびりした時代には受付のおじさんが「入って遊んでいきなさい」とお菓子を出してくれて、隅から隅まで見て回っていました。