「松山智一展 FIRST LAST」が
麻布台ヒルズ ギャラリーで開催中(5/11まで)!

文=ONBEAT編集部

東京・麻布台ヒルズ ギャラリーにて、ニューヨークを拠点に20年以上活動を続けてきた松山智一による東京では初の大規模個展「松山智一展 FIRST LAST」が好評開催中だ(2025年5月11日[日]まで)同展には展覧会タイトルと同名の新シリーズ「First Last」など日本初公開となる大規模作品19点を含む40点以上の作品が展示されており、松山の特異なアイデンティティを通して捉えたグローバルな現代社会のリアリティを、迫力ある色彩と壮大なスケールの絵画で体感することができる。

本記事では、この展覧会のキュレーターを務めた美術評論家で詩人の建畠晢へのインタビューを掲載。新シリーズ「First Last」の作品を建畠がどう分析したのか、3つの作品に焦点を当てて語ってもらった。

キュレーター 建畠晢 インタビュー

聞き手=藤田博孝(ONBEAT編集長)

-今回の松山さんの展覧会にはキュレーターとしてどのように関わられたのですか。
建畠:自分ではキュレーターを務めたというより、ご相談にあずかったという認識でいます。これまでに携わってきた仕事の関係で麻布台ヒルズギャラリーというスペースをよく知っていたこともあり、いろいろな意見を提示させていただきましたが、作品選定などは私がしたわけではないんです。

-では、松山さんの新シリーズ「First Last」に対する建畠さんの見解を聞かせてください。
建畠:「First Last」シリーズの作品を見たのは、昨年のヴェネツィア・ビエンナーレに合わせて開催されていた松山さんの個展「Mythologiques」でした。会場であの新作を見たときに本当に深い感銘を受け、松山さんに対して「僕が抱いていた作家像を遥かに超えるキャパシティを持っている可能性がある」と感じました。しかし、さまざまなものの引用や、描く人物のイメージ、コラージュ的な編成といった手法的なことは今までと変わっていませんでした。僕はこの「静かな衝撃」が、松山さんに何かしらのブレイクスルーが起きたことによるものなのか、それとも見ている側に何かしらのブレイクスルーがあったからのか、それがどうして起こったのかについて考えました。ここではそれについてお話しします。

会場風景 Mythologiques(ヴェネツィア)2024年 ©Francesco Russo

 

例えば、《Bring You Home Stratus》という作品では、京都の三井別邸とスペイン風コロニアル建築を掛け合わせた室内に、バロック期の宗教画のイメージで男女が座っています。ここに描かれているバロック期の宗教画のような男女や、田中一村風の南国の木、石の灯篭といった要素は、互いに無関係のまま同時に存在しています。本来の文脈から切り離されて寄せ集められたこれらのイメージは、本来の意味を完全に打ち消されることもなく、かといって画面上にもそれらを吸収する新たな文脈があるわけでもありません。
こういったバラバラな要素が同時に提示されながらも、それが乱脈なカオスを形成するのではなく、非常にふくよかで少しの謎をはらんだ、麗しいバランスの取れた空間を作り出しているというところが、今までと違うところなんです。バラバラなものが新しいものに吸収されて1つの物語を形成するということはよくありますが、この作品の場合は、それぞれ質の違う要素が1つの物語に吸収されず、質が違ったまま遠心的なハーモニーを奏でているんです。画面上で起こっているこの信じられない現象が「静かな衝撃」をもたらしたわけです。

 

Bring You Home Stratus 2024年 H330cm x W307cm

 

また形態論的な観察をしてみると、複数の描画法が矛盾なく使われていることがわかります。赤い市松模様の床のタイルは中央辺りにある消失点に向かっている「一点透視法」、その上の楼閣は斜めの角度から見ていて右と左に消失点がある「二点透視法」で描かれています。さらには、下に描いてあるものは近く、上に描いてあるものは遠くなっていく「上下遠近法」と、進出色と後退色による「色彩遠近法」も使われています。特に色彩遠近法に関しては、白と赤という進出色で構成されたタイルの上に灰色という後退色の灯篭がのっているのを見るとわかる通り、本来の遠近法と色彩遠近法が逆になっています。
これは実は、遠くのものを明るく描き、手前のものを暗い色で描くことで画面を活性化させる、マネに始まってマティスやピカソ、セザンヌなども行った近代絵画の基本なんです。松山さんは意識していないでしょうが、そういった面ではセオリーをしっかりと踏襲しているんです。画家たちはある程度計算している場合もありますが、普通は直感的・本能的に描いています。これらの説明は事後的ではありますが、新作の「First Last」シリーズがある種の謎をはらみながら非常に充足した不可思議で麗しい空間を出現させていることには、こういったことが機能しているのだと思います。

《Catharsis Metanoia》という作品も東西の組み合わせになっていて、左側の西海岸風の家屋と右側の日本家屋とがシームレスにつながっています。中央にはジョー・ローゼンタールのあまりにも有名な写真からの引用で、硫黄島の摺鉢山に星条旗を立てている様子が描かれています。ここでは旗竿を持つ兵士たちを薄いベールのような半透明の白で描くことによって、アメリカの勝利を告げる本来の意味を従前に認識させながらも意味がニュートラル化されています。反戦やアメリカのナショナリズムに対する批評的な眼差しが全くないわけはないけれども、反アメリカが主張されているわけでもありません。また、彼の描く人物はいつもそうですが、左右に配置されている男女は東洋系です。ここでも先ほどと同様、それらの要素が新たな文脈もなしに同時に存在しながら、キッチュさも引き起こさずに遠心的なハーモニーを奏でています。この絵ではやはり、硫黄島の玉砕を半透明のベールのようにして描いたところに衝撃を受けました。この松山さんの一貫した「ニュートラル化」を見て、「只者ではないな」と思ったんです。

Catharsis Metanoia 2024年 H279cm x W384cm

 

ダヴィッドの《ソクラテスの死》と《マラーの死》という二つの死が描かれている《We The People》という作品で特徴的なのは、今までは引用される絵画の人物たちがアジア系に置き換えられていたのが、ここでは直接模写されている点です。非常に鮮やかなパッケージの商品が整然と並ぶ中で、死を受け入れたソクラテスが仰ぐ毒盃は、アメリカで健康への害が叫ばれているシリアルで描かれており、またマラーが暗殺されているのは原画では浴槽でしたが、ここではショッピングカートになっています。これらはどちらも、アメリカの消費文化の象徴でもあるスーパーマーケットを舞台に二つの荘厳な死を描いているという点で、そうした消費文化に対する辛辣とも爆笑を誘うともいえるアイロニーになっています。そしてこの作品では、今までとは違ってその意味がニュートラル化されずに文脈ごと残っている気がします。

We The People  2025年  H293cm x W533cm

 

また、作品を見ていて思い出したのは、ゴットホルト・エフライム・レッシングが『ラオコオン』という有名なエッセイで書いた「空間芸術」についてです。時間芸術は時間の経過に伴って物語を展開しますが、空間芸術では瞬間の中にすべての重要な意味を込めます。つまり、最も重要な瞬間を汲み取って、そこにすべての象徴を託すというのが空間芸術の可能性であるというわけです。ヴァチカン市国の美術館に収められているラオコオン像を見ると、ラオコオンは二人の子供と共に蛇に絡みつかれており、今にも殺されそうになっていますが、逆に言えば死の瞬間という悲劇の絶頂ではなく、その少し前の瞬間を捉えているんです。レッシングはそうすることによって、劇的な描写に心を奪われることなく、より象徴的な意味を汲み取ることができると述べました。
また、ジル・ドゥルーズは自身の映画論の中で、小津安二郎の『東京物語』のラストで円筒形の花瓶が静止画で映し続けられるシーンを取り上げて、それは「動に見せた不動」であるとし、これを「微分された時間」と呼びました。我々は、曲線の中のどこか1つの点であり瞬間でしかないその「微分された時間」の中に、いろいろなものを読み取ります。《We The People》には、そういった意識を喚起させる力が潜在的に存在していて、それが我々に何も読み取っていないにも関わらず、全てを読み取ったという充足感をもたらすのではないかと考えました。

ー切り取られた瞬間を我々の脳が補完しているというわけですね。実際に「First Last」シリーズでは松山さんの表現の強度や深度が増しているように感じます。
建畠:イメージの深さが増しているのだと思います。ヴェネツィアでの個展「Mythologiques」で初めて「First Last」シリーズを見た時に、何故良いのかという理由ははっきり分かりませんでしたが、しかし一目で「これは凄いな」と思いました。そう感じさせる松山作品の画面の豊かさには「一望性」が機能しているのだと思います。一望性が機能するためにはグリッド構造であることが重要になってきます。しかしグリッド構造は全てが等価で互いが常に交換可能な空間であるがゆえに、観客が一望したときにどう見ていいか分からず視線が移ろってしまうことがあります。こういう特殊な状況を喚起する点さえも、松山作品においてはうまく機能していると思います。松山さんの引用元のキリスト教の知識についても、彼本人に詳しく話を聞けば、さらにいろいろな側面が見えてくると思います。

ー「松山智一展 FIRST LAST」は、その細部に至るまで松山さんの表現への強い意志が満ちていて圧倒されました。
建畠:松山さんのことを誤解している人たちにこそ、この展覧会を見てほしいですね。

建畠晢

建畠晢

 

1947年京都生まれ。美術批評家、詩人。1972年早稲田大学文学部仏文学科卒業。新潮社『芸術新潮』編集部を経て、1976年から国立国際美術館に勤務。国立国際美術館館長(2005年~2011年)、埼玉県立近代美術館館長(2011年~2025年3月)、草間彌生美術館長(2017年~)、京都市立芸術大学理事長・学長(2011年~2015年)、多摩美術大学学長(2015年~2022年)などを歴任。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」日本館コミッショナー(1990年、1993年)、「横浜トリエンナーレ2001」アーティスティック・ディレクター、「あいちトリエンナーレ2010」芸術監督など、多くの国際美術展を組織し、アジアの近現代美術の企画にも多数参画する。詩集に『余白のランナー』(第2回歴程新鋭賞)、『そのハミングをしも』、『パトリック世紀』、『死語のレッスン』(第21回萩原朔太郎賞受賞)、『剝製篇』(以上、思潮社)、『零度の犬』(第35回高見順賞、書肆山田)など多数。評論・エッセイに『問いなき回答』、『未完の過去 絵画とモダニズム』、『ダブリンの緑』(以上、五柳書院)などがある。

松山智一

Photo : Fumihiko Sugino


<松山智一>

現代美術家。1976年岐阜県生まれ、ブルックリン在住。絵画を中心に、彫刻やインスタレーションを発表。アジアとヨーロッパ、古代と現代、具象と抽象といった両極の要素を有機的に結びつけて再構築し、異文化間での自身の経験や情報化の中で移ろう現代社会の姿を反映した作品を制作する。
本展について松山は、「多様な文化が交錯するニューヨークで20年以上活動し、日本とアメリカというルーツを持つ自身にとって東京での展覧会は大きな意味を持ちます。国や言語、文化や世代を超えていま同じ時代を生きる私たちだからこそ感じることがあると思っています。作品世界に足を踏み入れ、鑑賞者としてだけでなく、作品への参加者、対話者として体験してもらえればと思います。」と語る。

松山智一展 FIRST LAST supported by UNIMAT GROUP

会期:2025年3月8日(土)~5月11日(日) *会期中無休
時間:月・火・水・木・日 10:00 ~ 18:00
金・土・祝前日 10:00 ~ 19:00
*入館は閉館の30分前まで
会場:AZABUDAI HILLS GALLERY
WEB:https://www.tomokazu-matsuyama-firstlast.jp/index.html
観覧料については公式HPをご確認ください。

『ONBEAT vol.22』松山智一 特集

バイリンガル美術情報誌『ONBEAT vol.22』では、松山智一を巻頭企画として22ページにわたり大特集!滋賀県立美術館ディレクターの保坂健二朗を聞き手に、松山智一にロングインタビューを敢行。好評開催中の「松山智一展 FIRST LAST」や自身の創作活動について、松山本人が語り尽くしています。まさに保存版といえる内容で、こちらも好評発売中!

ONBEAT vol.22

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