「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2024」において、ルシアン・クレルグ「ジプシー・テンポ」が嶋臺(しまだい)ギャラリーにて開催中!(2024年4月13日[土]~2024年5月12日[日」)

「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は、世界屈指の文化都市・京都を舞台に開催される、日本でも数少ない国際的な写真祭だ。一千年の長きにわたって伝統を守りながら、その一方で先端文化の発信地でもあり続けてきた京都。その京都がもっとも美しいといわれる春に開催される。
日本および海外の重要作品や貴重な写真コレクションを、趣のある歴史的建造物やモダンな近現代建築の空間に展開し、ときに伝統工芸職人や最先端テクノロジーとのコラボレーションも実現するなど、京都ならではの特徴ある写真祭を目指す。

KYOTOGRAPHIEの共同設立者/共同代表のルシール・レイボーズと仲西祐介は、2011年の東日本大震災で日本と海外の情報交換の稀薄さを目の当たりにした。それはおのずと双方の情報を対等に受信発信する、文化的プラットフォームの必要性への確信となった。日本はカメラやプリントの技術において世界を先導しているにもかかわらず、表現媒体としての「写真」はまだまだ評価されていない。二人はここに着目し、「写真」の可能性を見据えるべく国際的フェスティバルを立ち上げた。

2024年は「SOURCE」をテーマに、12の会場で13の展覧会を展開。

二人は今回のテーマについて、以下のメッセージを寄せている。「源は初めであり、始まりであり、すべてのものの起源である。それは生命の創造であり、衝突が起きたり自由を手に入れたりする場所であり、何かが発見され、生み出され、創造される空間である。人生の分岐点にかかわらず、私たちは岐路に立っており、原点に戻るか、 新しいことを始めるかの間で揺れ動いている。 生命、愛、痛みのシンフォニーが響き渡るのは、この神聖な空間からなのだ。 その源で、無数の機会が手招きし、何か深い新しいものを約束してくれる(プレスリリースより一部抜粋)」。 SOURCEを探求し、オルタナティブな未来を望む。

ルシアン・クレルグ「ジプシー・テンポ」

世界最古の写真祭「アルル国際写真祭(Les Rencontres d’Arles)」の創設者であるルシアン・クレルグ(1934 – 2014)は、海辺のヌードの作品や、画家パブロ・ピカソとも親しく、そのポートレイトでも知られる写真家。晩年、文化への多大な貢献が評価され、写真家として初めてフランス・アカデミーにノミネートされた。南フランスに位置するアルルは、ローマの人々が地方分権の首都の一つとして建設した比類なき遺産都市。南仏の湿地帯に位置し、その独特の光は画家フィンセント・ヴァン・ゴッホを魅了し、彼の代表作となる絵画の数々が生まれたのもこの地だった。

アルルはジプシー(ロマ)の一族の故郷でもある。年に一度、5月になると、近くの小さな村「サント=マリー=ド=ラ=メール」で行われるジプシーの人々の守護聖女、黒人の召使だったとされるサラの巡礼のために、ヨーロッパ中から多くのジプシーの人々がやってくる。

アルルは1950年代、写真家としてのクレルグにとって最初の撮影地だった。彼はすぐにジプシーのコミュニティと関わり合い、彼らの生活を撮影するようになる。ジプシーの人々がナチスにより収容所に送られ、他のどの民族よりも後回しにされて解放された第二次世界大戦後のことだ。

本展の作品には、ジプシーの数家族の日常生活、荷馬車で生活するノマドの伝統、宗教の重要性、そして鮮烈な存在感を放つジプシーの音楽とダンスが写し出されている。自身もヴァイオリン奏者であったクレルグは、のちにジプシーのギター奏者の巨匠となるマニタス・デ・プラタとその友人、ホセ・レイエス(後のジプシー・キングスのメンバーの父親)を見出し、世界に向けて彼らを興行するようになった。そうしてマニタスは60年代を代表するスターミュージシャンのひとりとなり、日本を含む世界各地でコンサートが開催された。

本展では、これまであまり発表されることがなかったクレルグの最高峰の作品群であり、アルルでの日常からニューヨーク・カーネギーホールまでを写した、ジプシーの人々の貴重な旅が展示されている。

クレルグはこうした旅を通じて、近代写真の巨匠として名高いアンセル・アダムスやエドワード・ウェストンらアメリカ西海岸の写真家たちと出会う。そして 1970年に友人のジャン=モーリス・ルーケットとともに創設したばかりの写真祭に彼らを招聘し、その作品を展示した。それが後にKYOTOGRAPHIEをはじめ多方面にインスピレーションを与えることになる、世界初の写真フェスティバル「アルル国際写真祭」の始まりとなるのだ。

デルタ・ドゥ・セル(塩の三角州)

ルシアン・クレルグ 作
制作:Films de la Pleiade、1968年

ルシアン・クレルグは、写真家としてはもちろん、ヴァイオリン奏者としてなど、多方面において芸術的業績を残しています。
そしてマニタス・デ・プラタの興業主でもあり、世界初の写真祭「アルル国際写真祭」の共同創設者でもあります。
彼が制作した17本の映画は主に、アルルやローヌ川の三角州地帯であるカマルグの湿地とその風景からインスピレーションを受けています。風景、闘牛(アルルでは闘牛が盛ん)、ピンクのフラミンゴ、そしてパブロ・ピカソのような芸術家が彼の映画の主な題材となりました。
「デルタ・ドゥ・セル(塩の三角州)」は彼の最も完成度の高い作品の一つで、「闘牛の死」と並んで1968年のカンヌ映画祭に選ばれました。しかし、その年のフランスをはじめとする世界的な社会変革の波により、映画祭は有名な芸術家たちによって中止されました。
「デルタ・ドゥ・セル」は、水、夏の強い日差し、冬の鋭さ、砂、塩、潅木で形成されたカマルグの風景を巡る詩的な映像の遊歩道のような作品です。サイケデリック・アートが盛んだった時代に撮影され、マニタス・デ・プラタのギターがサウンドトラックで流れ、今、ファッションとしてよみがえりつつある60年代の美学をよく表現しています。
カマルグは広大な並置が拡がり、立ち入るのが難しく、写真や映像にとって挑戦的な場所だと言われています。クレルグは、この壮大で静謐な土地を立体的に表現し、第三の次元ともいえる新たな領域を創り出しました。
フランスの有名な哲学者であるロラン・バルトはクレルグの作品について次のように述べています。
「クレルグは砂浜に対する私たちの認識を変える。わずかな砂で、彼は壮大な風景を作り上げ、その意味の体系を凌駕する。一本の草が一本の木になり、一粒の穀物が山脈になる」

ルシアン・クレルグ / Lucien Clergue
ルシアン・クレルグ(1934–2014)は、南仏のアルルで育った。フィンセント・ファン・ゴッホがいくつもの傑作を生み出したアルルという街の存在は、写真や音楽において功績を残したクレルグの芸術活動の根底にあった。10歳のときに経験した戦争による破壊と貧困は、彼の人生に深い影響をもたらした。1948年、食料品店を営んでいた母親からボックスカメラを贈られる。彼女は息子が芸術家になると考え、彼はヴァイオリンを学び、のちに写真に興味を持つようになった。1953年にはアルルの戦場跡の子どもたち、凍てつくカマルグ(南仏)の湿地での動物の死体、そして闘牛を撮影した写真作品群で画家パブロ・ピカソのお墨付きを得ることとなる。波打ち際のヌードのシリーズは、1970年代、西洋の解放された性の時代に彼を有名にした。1969年にはアルル国際写真フェスティバル(les Rencontres Internationales de la Photographie d’Arles)を立ち上げ、プロやアマチュアの写真愛好家たちが集う、年に一回の世界的な写真祭となった。同じ頃彼は、間もなく世界的に有名になる、ロマ族のギタリスト、マニタス・デ・プラタ(後に出てくるフラメンコ・ギター・バンド、ジプシー・キングスのメンバーの父であり、叔父でもある)を見いだし、彼の興行主となった。またこれがきっかけとなって、カマルグの重要なロマ族コミュニティと親密さを築き、長きに渡って多くの写真を収めることとなった。2006年、クレルグは写真家として初めてアカデミー・デ・ボザール(フランス学士院)の会員となり、2008年には芸術文化勲章コマンドゥールの称号を授与され、2015年にはパリのグラン・パレで大規模な回顧展が開催された。

開催概要

ルシアン・クレルグ「ジプシー・テンポ」
会期:2024年4月13日(土)~2024年5月12日(日)
時間:10:00~18:00 ※入場は閉館の30分前まで
休館日:4月16日、23日、30日、5月7日
会場:嶋臺(しまだい)ギャラリー
住所:京都市中京区御池通東洞院西北角
アクセス:地下鉄烏丸線または東西線「烏丸御池」駅1番出口から徒歩1分
入場料:大人 800円、学生 600円(学生証の提示)

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