2021年1月26日(火)~3月28日(
ダイアナ妃やフロイトにも愛された画家・吉田博(1876-1950)は、福岡県久留米市に生まれ、洋画家としての素養を持ちながら、画業後半期にはじめて木版画に挑戦し、新たな境地を開拓。深山幽谷に分け入り自ら体得した自然観と、 欧米の専門家をも驚嘆させた高い技術をもって、 水の流れや光の移ろいを繊細に描き出した。
吉田の没後70年という節目に開催される本展は、 最初期から代表作の木版画を一堂に集めるとともに、 版木や写生帖をあわせて展示し、 西洋の写実的な表現と日本の伝統的な版画技法の統合を目指した吉
みどころ
水彩・油彩画から木版画へ 49歳の再出発
明治9年福岡県久留米市に生まれ、絵を描くことと野山を逍遥することを好んだ吉田は、京都で田村宗立に学んだ後、三宅克己の水彩画に感動し、上京。小山正太郎の画塾で風景写生に取り組んだ。当時、黒田清輝率いる白馬会など国費でフランス留学する若本を多く輩出していたが、そんな彼らへの対抗心に駆られた吉田は、アメリカ経由で渡欧することを思い立つ。その渡米の背景には、横浜で吉田の水彩画がアメリカ人によく売れたこと、また日本でデトロイトの実業家でありコレクターでもある人物に勧められたこともあったという。
その後、中川八郎と渡米し、デトロイト美術館で作品が激賞されたことをきっかけに、アメリカで次々と二人展を開き、自作を売り続けた吉田は、大正9年木版画と出会う。展示の冒頭では、版元渡邊庄三郎のもとで下絵や制作を手掛けた最初期の細密な写生や、精妙繊細な水彩画を描いていた吉田が、いかに木版画へと展開したのか、垣間見ることができる。
評価軸としてのアメリカを意識し続けた吉田博の視線
関東大震災により、版元渡邊庄三郎のもとで手掛けた木版画の版木や作品の大半が焼失した。これを受けて吉田は被災した仲間を救うため、多数の作品を抱えて渡米したが、油絵よりも焼け残りの木版画が売れたことから、自ら版元となり木版画を制作することを思い立つ。その後吉田は、木版画に着手した大正14年に早くも『米国』シリーズと『欧州』シリーズの全17点を完成させた。本展では、『米国』シリーズや『欧州』シリーズなど、アメリカを評価軸として意識し、生涯、世界における自分の立ち位置を考え、世界で勝負し続けた吉田の姿が見える。
“日本人にしか描けない洋画”への挑戦
約20年にわたる吉田の版業の中でも、最も多く制作したのは大正15年(1926年)のこと。中でも代表的な『日本アルプス十二題』シリーズと『瀬戸内海集』シリーズは、洋画の描き方をベースとする温雅なリアリズムや、千変万化する光や大気、湿度を表す繊細な表現など、吉田の木版画の美質と新しさを体感できるシリーズだ。水彩画で培った巧みな水性顔料の扱い方や、浮世絵の習わしに囚われない複雑な色分け、平均三十数度という入念なすり重ねなど、自らを建築家にたとえ、すべての工程を制御するだけではなく、時には自ら彫りや摺りを手掛けることもあったという吉田の姿勢やスタイルが存分に発揮されている。
吉田のこだわりは、作品のマージンに捺された「自刷摺」(吉田自ら監修したことを保証する印)や、晩年に建築物の複雑な構造や古びを表すため《東照宮》を約80度摺、《陽明門》を96度摺という途方もない工程を経て完成させたことからも垣間見える。こうして「日本の版画にかつてなかった光の輝きやモチーフの繊細なテクスチャー、色彩のグラデーションを形にした」吉田の作品は、「日本人にしか描けない洋画」ともいえる。
『関西』『櫻八題』『東京拾二題』『動物園』『庭四題』など身近な日本の風景への視線
吉田は『関西』シリーズや『櫻八題』シリーズ、『動物』シリーズをはじめ、山や自然、旅先の風景を描くことが多く、三種の隅田川に始まる『東京拾二題』シリーズのように、東京を描いた作品は少ない。加えて人物表現を得意としなかった吉田が、街ゆく人々を時にクローズアップして描くのは珍しいが、和装の女性が多いのはアメリカの市場を意識していたとも考えられる。自宅の東屋を描いた《中里之雪》は、「伝統的な木版画であれば雪の粒を登場させるところを、版を巧みにざらつかせて降りしきる雪を活写」しており、またほとんど色を用いない点では異色の作品ともいえる。
登山家だからこそ描けた様々な視点からの山岳風景
幼い頃から山歩きを好み、大正の初め頃には本格的に登山を行った吉田は、時に「山の画家」「山岳画家」と呼ばれる。中でも富士山などは”自分の家の庭位に考えて居る様だ”と画友に語られるほど。富士山は一般的に描くのが難しいといわれているが、山頂や山腹、麓からの視点や、海や湖、川との共演など、吉田は登山家ならではの豊かなヴァリエーションで『冨士拾景』シリーズを含む数多くの作品を描いた。
インド、中国等の外地での経験が吉田にもたらした新境地
昭和5年インドへ出かけた吉田は、自身最大のシリーズとなる、32点の『印度と東南アジア』シリーズを完成させる。欧米とは異なる景色に触れたことで、「まばゆい光を浴びる石造りの建物や彫刻を描きだすため、輪郭線を抑え、泡色を幾度も摺り重ねる」幻想的な表現など、新たな造形をもたらした。また昭和11年には中国を訪れ『北朝鮮・韓国・旧満州』シリーズを制作するが、日中戦争勃発後、従軍画家として中国に赴いた吉田は、戦地の印象を写生帖に残すも、販路の問題からか、木版画は数点にとどまり、油彩画や水彩画を発表している。
成熟と枯淡の境地へー静けさと安らぎが漂う晩年の吉田博
日中戦争中、自由な写生旅行もままならず過去の写生帖に画像を求めることも増えた。また自国の美点を再評価する風潮を受けてか、吉田は寺社を中心とした日本的な景色を描いている。しかしそれも太平洋戦争を控えた昭和16年、《新月》を最後に木版画の制作は途絶えた。海上の帆船といえば大正期の『瀬戸内海集』が思い出されるが、《新月》ではかつての実験精神は影を潜め、ただ静けさと安らぎが漂う。そして昭和21年《農家》を発表。それが戦後の吉田の唯一の作品となった。
49歳から20年にわたって吉田が制作した木版画は約250点。日本の伝統的な技術を応用するだけではなく、生涯世界での立ち位置を考え、オリジナルな絵を追求した吉田の答えをぜひ本展を通して感じとってほしい。
写生帖
現在確認できる写生帖は約170冊。隅々まで描き込まれた写生には取材地や題材が記され、作画のもとになったと考えられるが、構図が一致するものは稀であることから、写生帖から木版画になるまでに構成などが熟考されたことがうかがえる。
※参考資料:『没後70年 吉田博展』公式図録
◆開催概要
開催日:2021年1月26日(火)~ 3月28日(日)
休館日:毎週月曜日
開館時間:9:30~17:30
住所: 東京都美術館 企画展示室
電話:03-5777-8600
料金:一般1600円、大学・専門学校生1300円、高校生800円、65歳以上1000円
『ONBEAT vol.13』では吉田博展を10ページにわたって紹介しています↓↓