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葛飾北斎

《冨嶽三十六景 神奈川県沖裏》 天保2年頃 大判錦絵 25.2×37.6cm すみだ北斎美術館蔵

『北斎漫画』発見の衝撃

「私は6 歳のときより、ものの形を写す癖があって、50 歳の頃にも、しばしば絵を描いた。といっても70 年前に描いたものは実に取るに足るものではないです。73 歳でようやく鳥獣や虫魚の骨格、草木の成立ちを悟ったのです。それ故に86 歳にして写生はますます進歩上達し、90 歳でその奥義を極め、100 歳にして神技となるでしょう。110 歳になれば一点一画が生きているようになるでしょう。皆さん長く生きて私の言うことが妄想かどうかを見てください(現代語訳)」。北斎76 歳の時に画狂老人と名乗って描いた絵本『富嶽百景』で述べた言葉だ。北斎は文字通り、画に狂っている。絵を描くことしか考えない。常に自己変革を求めて画号を変えること生涯30 数回、気分を変えるための引っ越し90回以上と尋常ではない。そんな北斎が西欧に知られるようになったエピソードが面白い。1856(安政3)年、フランスの版画家ブラックモンが日本から送られてきた陶器を保護する緩衝用に詰められていた『北斎漫画』の紙片を発見、そこに描かれている生き生きした神技のごときスケッチに驚嘆して画家仲間に見せて回ったのが始まりだ。後にブラックモンはこれら花鳥虫魚のスケッチを陶器の絵柄に用いて評判になる。1867(慶応3)年のパリ万博に出品された浮世絵版画や陶磁器、漆家具や漆器などは博覧会後に西欧の文化人・芸術家に収集され、ジャポニスム(日本趣味)が広がる。西洋にはなかった日本の芸術表現は、かの地のアーティストたちに強烈なインパクトを与えた。その後の1878(明治11)年のパリ万博終了後には林忠正がフランスに残り、浮世絵の普及に努める。そしてゴッホ、ゴーギャン、モネらは浮世絵の影響を受けて新しい表現を生み出す。これらジャポニスム呼ばれる一連のムーブメントは西欧諸国を席巻した。そのような中、フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールは1896( 明治29)年、研究書『北斎』を刊行。彼の北斎評価は後世に決定的な影響を及ぼす。事実、21世紀を迎えるにあたって、1999 年、米ライフ社が選んだ「この1000 年で最も偉大な業績を残した世界の100人」に、北斎はただ一人の日本人として選ばれたのである。北斎の《神奈川沖浪裏》は、崩れ落ちる巨大な波頭が、富士山と小舟に覆いかぶさる大胆で強烈な図様。誰でも一度見たら忘れられない。まるで高速度5000 分の1 秒で撮った写真のようだ。海外では「グレートウェーブ」と呼ばれ、「世界で最も有名な絵」の第1位の《モナ・リザ》に次ぐ、2 位に選ばれている。

誕生から超絶絵師への道のり

北斎は1760(宝暦10)年、江戸本所の割下水( 現在の墨田区亀沢あたり)で、武家・川村某の子として生まれる。幼名は時太郎。幼い頃に幕府御用達の鏡師・中島伊勢の養子になるが、後に中島家を離縁し15 、6 歳で彫師の弟子になる。19 歳で役者絵の第一人者、勝川春章に入門。翌年、春朗という画号を授かり、細版の役者の舞台姿を描いた。器用ではあるが、平凡な表現であった。並行して黄表紙・洒落本などの小説挿絵、風景画の前身である透視画法の浮絵など、多方面の仕事を引き受ける。師の死後、看板描きの副業を兄弟子・春好になじられ、勝川派を破門される。だが破門されたことが、北斎を奮起、飛躍させ、将来に大成するきっかけを生む。36 歳のとき、二代目俵屋宗理を襲名。この頃より狂歌師が自費で出版する狂歌摺すり物ものに描くことが多くなる。摺物とは市販でない私的印刷物のことで、知人などに配るために摺られた。狂歌摺物をはじめ俳諧摺物、絵暦などの配り物は、改印不用の私家版なので、制約がない。うりざね顔に柳腰の楚々とした北斎独特の美人スタイルは、この時代に完成し「宗理美人」と呼ばれている。摺物には、精緻な彫りにぜいたくな絵具など、彫摺の技術の粋を尽くしたものが多く、これらは現在西欧で評価が高い。こうしてこの時期、北斎は、狩野派、琳派から西洋画に至るまで、あらゆる描法を学んだのである。1801~1830(享和から文政頃)年までは、「葛飾北斎」と名乗り実験的な洋風表現の風景画を残す。狂歌絵本『絵本 隅田川両岸一覧』、『東都勝景一覧』、読本挿絵、絵手本など多方面にわたり腕を振るう。中でも特筆されるのが1814(文化11)年、名古屋の永楽屋から発行された『北斎漫画』だ。名古屋に住む弟子・牧墨僊に招かれて描いたスケッチ集で、全国で活躍する弟子のための絵手本として描かれた。「漫画」とは当時は滑稽な絵ということではなく、筆のおもむくまま漫然と描いたという意味であった。滑稽な絵もあれば写実的な動植物の図、人物風俗から自然現象まで次から次へと脈絡なく描かれている。それゆえ、百科図典とも言われる。一冊で終わらせるつもりが、好評を博したため、為一と改名して続刊を重ね、没後の1878(明治11)年に15 編まで刊行された。北斎は『北斎漫画』以外に『己痴羣夢多字画尽』、『略画早指南』、『一筆画譜』、『三体画譜』、『画本色彩通』、『北斎画式』など、多数の絵本・絵手本を描いている。

ベロ藍(北斎ブルー)が富士山を染めた

北斎と言えば富士山。富士山といえば北斎と言われるように、富士山は北斎に描かれたことにより日本を代表する山として世界に知られたと言ってよい。北斎以後、富士山を描く画家は数々あれども、北斎を超える画家はいない。

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《隅田川両岸景色図巻》(部分) 文化2年 絵巻 絵本着彩 すみだ北斎美術館蔵